診療記録050:甘い渇き、乾いた取引
- 種族
- ララフェル・デューンフォーク / 男性 / 64歳
- 職業
- 実業家・政治家(砂蠍衆の一員)
- 主訴
- 口渇、多飲、多尿、易疲労、体重減少、視界の滲み
- 診断
- 糖尿病/脱水傾向
- 処置
- 生活介入(分割食・甘味飲料中止・軽運動)+自己測定導入。数値次第で薬物療法を段階的に追加
- 留意事項
- 職務特性(外食・会食・夜間対応)/対人緊張による生活破綻リスク
朝の棚は整っていた。
先日の救急の残り香はとうに消え去り、瓶は黙り、床は乾き、薬草の匂いがまた主役に戻る。
鈴が鳴った。
扉から入ってきたのはララフェル。衣は簡素だが縫い目がいい。砂の上でも崩れない仕立て。
足取りは軽いのに、空気が重い。小さな影が、部屋の温度を一段だけ下げる。
「……医者にかかる趣味はないんだがね」
口調は柔らかい。柔らかいまま、人の喉元へ刃を添える声だ。
私は相手の名を確信する。砂蠍衆。名を聞かなくても分かる種類の“静けさ”がある。
シシスが、いつもより半歩前に出た。
「お名前を」
私は小さく首を振り、手で制した。
「今日は要りません。――ここでは“患者”として扱います」
彼は一瞬だけ目を細め、それから肩をすくめた。
その一瞬に、いくつかの過去が挟まる。私の友――光の戦士。彼女と、この男の間に横たわる、乾いた砂のような因縁。
「……助かるよ。名を出すと、余計なものまで付いてくる」
余計なもの。
過去の失敗、計画、責任、救い、罪。――どれも名と一緒に運ばれる。
私は椅子を勧めた。
「何が一番つらいですか?」
「喉だ。乾く。水がいくらでも入る。
それで夜に何度も起きる。眠りが薄い。……砂漠みたいにね」
「尿は増えましたか?」
「増えた。商談中に困る」
「食欲は?」
「ある。むしろ増えた」
「体重は?」
「落ちた。……計算が狂う」
“計算”という言い方が、この男らしい。身体すら帳簿のように扱ってきたのだろう。
シシスが器具を準備しながら言う。
「あなたが“困る”と言う時点で、だいぶ困ってますね」
「君は口が悪い」
「口が悪くないと、あなたみたいな人は来ません」
軽口の形をしているが、互いに距離を測っている。
私はそこに踏み込まず、診断への近道を選ぶ。
「尿検査と指先の血糖、採血も。すぐ出ます」
彼は手を出した。指先の皮は硬い。紙と金貨と署名の硬さだ。
シシスが穿刺する。
「……高いですね」
冗談が終わる音。
続いて尿検査の反応を読む。
「尿糖、陽性。脱水もあります。酸は――強くない」
私は頷いた。救急の匂いではない。だが、放置すれば救急へ滑る。
「糖尿病です。
血の中の糖が高くなると、身体は水で薄めようとして尿で捨てます。だから乾く」
彼は椅子に深く腰掛け直した。
恐れというより、交渉の姿勢だ。答えが出たなら、次は条件を詰める。
「甘いもののせいか?」
「甘いもの“だけ”ではありません。
食事の時間、量、酒、睡眠、運動、仕事のリズム。全部が絡む」
私はそこで一拍置き、言葉を選んだ。
選び方を間違えると、この男は診療所から“上手に消える”。
「……それから、緊張も」
彼の目が僅かに動く。
過去の影が、指先で紙を撫でるように触れた。
「緊張は仕事だよ」
「ええ。でも緊張は、血糖を上げます。
あなたが“砂漠みたいに乾く”ほど張り詰めているなら、治療は生活だけじゃ足りない」
シシスが紙束を出す。薄い罫線の記録用紙。
「記録をつけます。
食べたもの、時間、眠り、歩行量。渇きと尿の回数も。
砂蠍衆なら数字で納得できますよね」
彼は紙束を見て、ふっと笑った。薄いが本物の笑い。
「……君たち、意外と容赦がない」
「必要な分だけです」私は言う。「あなたは“必要な分”しか動かない」
その言葉に、彼は否定しなかった。
私は治療を“現実”に落とす。理想の食事表ではなく、職務に挟める形に。
「今日から三つ。
一つ、甘い飲み物はやめる。水か、薄い茶。
二つ、食事は減らすより、分ける。会食でも、一度に全部食べない。
三つ、毎日十五分でいい、歩く時間を確保する。商談の前でも後でも」
「薬は?」
「必要なら使います。ただし段階的に。
あなたの仕事で一番困るのは、急な低血糖です。倒れるのは、あなたの“損”になる」
“損”と言った瞬間、彼の眉がほんの少し緩んだ。
この男には、情より先に、現実が通る。
シシスが包みを差し出した。
「試験紙と針。自己測定。
逃げないでください。逃げると倒れる場所は路地です。診療所じゃ拾えません」
彼は視線を上げ、私を見た。
その目には、剣を持つ者を見る時とは違う種類の疲れがあった。
「……分かった。
……“あの冒険者”に知られるのは、嫌だが」
言い方が、乾いている。
嫌いというより、痛いのだ。彼は、ある人物が仕掛けた大きな計略の残骸を、拾い直して使った。
その結果、彼は“救った”とも“陥れた”とも言える場所に立った。
救いは取引で、陥穽は偶然ではない。――その中間に、彼の居場所がある。
私はそこで、診察の線を引いた。医師の線だ。
「ここで話すことは、ここに置いていきます。
本人の同意なしに、第三者へは伝えません。――友人でも」
彼の目がわずかに細くなる。
驚きではなく、確認。約束が守られるかどうかの確認。
「……友人、ね」
「ええ。私は医師で、あなたは患者です。
因縁は診察台の上で裁けない。病気だけを扱いましょう」
シシスが、少しだけ棘を落とした声で言う。
「あなたが体を整えれば、言葉も選べる。逃げ道も増える。
今はまず、乾きを止めること」
彼は、短く頷いた。
契約の合図に似た頷きだった。
私は最後に、言葉を飾らずに渡す。
「この病気は“弱点”ではありません。
あなたが長く動くための整備です。――砂の上でも転ばないために」
彼は立ち上がり、紙束と包みを懐に入れた。
扉の前で一度だけ振り返り、何か言いかけてやめる。
言わなかった言葉のぶんだけ、この男はまだ“乾いて”いる。
鈴が鳴り、扉が閉じる。
薬草の匂いが戻ってきても、私はすぐに棚を整えなかった。
私的記録:
救急の夜は、命をつなぐ。
慢性の病は、時間をつなぐ。砂の男は、名を置かなかった。
名を置くのは、弱さを見せるのと同じなのだろう。――あるいは、誰かの名を傷つける刃になるのだろう。血の甘さは、静かに人を削る。
乾いた取引も、同じように削る。診療所にできるのは、勝敗ではない。
――今日を、明日に渡すことだけだ。
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2件のコメント
遅くなりましたが読ませていただきました!!
今回は…あのお方ですかね…!
名前を出さずに人物を語るのがとてもお上手だなと思いました🙄✨
ですし、その相手に合わせた説明の仕方、流石リーザ先生です…☺️
ウルダハではかなり甘めな紅茶が好まれると何かで読んだ事があるので…この方も好んでたのかもしれないですよね
甘めの紅茶もそうですし、酒、会食、仕事柄どうしてもそういうのが多くなるでしょうしね……
そう、できるだけ来院者の名前に触れないようにしていますw