診療記録056:胸に乗せる体温、数える呼吸
揺籃箱の前の静けさは、少しずつ形を変える。見る。数える。触れる。今日は、その次。 母親は扉の前で一度だけ立ち止まった。止まったのは迷いではない。覚悟を、呼吸に戻すための一拍だ。 シシスが最初に線を引く。声は淡い。けれど、 […]
続きを読む揺籃箱の前の静けさは、少しずつ形を変える。見る。数える。触れる。今日は、その次。 母親は扉の前で一度だけ立ち止まった。止まったのは迷いではない。覚悟を、呼吸に戻すための一拍だ。 シシスが最初に線を引く。声は淡い。けれど、 […]
続きを読む揺籃箱の前の静けさには、順番がある。見る。数える。名前を呼ぶ。そして次に来るのは、触れる許可だ。 夫婦が来たのは、昼の光が少し柔らかくなる頃だった。母親の歩幅は、以前よりわずかに大きい。けれど視線だけは、入室した瞬間から […]
続きを読む夜の診療所は、昼より音が少ない。床板のきしみと、薬草の乾く匂いだけが残る。 揺籃の前は、さらに静かだった。ここでは声が大きいほど不安になる。だから皆、自然に小さくなる。 夫婦は並んで立っていた。母親はまだ歩幅が小さい。無 […]
続きを読む扉が鳴ったのは、夕方の境目だった。土と汗と、濡れた布の匂い。歩いてきた匂いに、焦りが混ざっている。 入ってきた女性は腹を押さえない。押さえないようにしている。——動くたびに張りが走るのを、身体が知っている。 夫は荷を持っ […]
続きを読む扉が開く前に、布と乾いた土の匂いが入ってきた。香辛料の粉が、ほんの少しだけ甘い。荷紐の麻が擦れる音。――歩いて暮らす人の、静かな音。 二人は今回も連れ立って来た。腹部の張りは前回よりはっきりしている。歩幅も姿勢も、無意識 […]
続きを読む診療所の扉が開くより先に、匂いが入ってきた。なめし革の甘苦さと、油の温い残り香。雨に濡れた外套から立ちのぼる湿り気に混じって、それは確かに“仕事場の匂い”だった。 現れたのはラヴァ・ヴィエラの女性。耳の先は外套のフードに […]
続きを読む扉が開く前に、道の匂いがした。乾いた土、荷紐の麻、香辛料の甘い粉。布の端に、雨避けの油の匂いが薄く残っている。“歩いて暮らしている人”の匂いだった。 入ってきたのは若い夫妻。二人とも口数は多くない。けれど視線はまっすぐで […]
続きを読む朝の診療所は、薬草の匂いより先に布の音がした。包み布を畳む音。替えの肌着を揃える音。小さな荷が、ふたつ分ある音だった。 出産から七日。彼女は椅子に座っていた。動きはまだ慎重だが、もう“恐る恐る”ではない。腕の中のひとりを […]
続きを読む夜半、扉を叩く音がいつもより短く、強かった。開ける前から、呼吸の乱れが聞こえている。 彼女は夫に支えられて入ってきた。寝巻きの裾が急いで羽織った外套から少しのぞいている。歩けてはいる。だが、歩幅は狭い。ひと波くるたび、足 […]
続きを読む扉が開く前に、ゆっくりした足音がした。急ぐ歩幅ではない。お腹を揺らさないよう、一歩ずつ確かめるような歩き方だった。 入ってきた彼女の肘を、夫が半歩後ろから支えている。妊娠38週。お腹はもう、抱えるというより前へ張り出して […]
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