診療記録054:揺籃箱の向こう、静かな名前
- 種族
- ミコッテ・サンシーカー / 女性 / 29歳
- 職業
- 行商人
- 配偶者
- エレゼン・フォレスター / 男性 / 29歳
- 経過
- 妊娠30週前後での早産分娩後。母体は安定。児は保温管理下で経過観察中。
- 処置
- 保温・呼吸・哺乳の段階的管理(院内)/面会・接触は段階的に許可(揺籃箱越し)
夜の診療所は、昼より音が少ない。
床板のきしみと、薬草の乾く匂いだけが残る。
揺籃の前は、さらに静かだった。
ここでは声が大きいほど不安になる。だから皆、自然に小さくなる。
夫婦は並んで立っていた。
母親はまだ歩幅が小さい。無理をしない、というより――守っている歩き方だ。
父親は両手を空けたまま。今日も荷は持たない。持つ場所が違う。
温箱の中の小さな身体は、布に包まれている。
呼吸は浅い。浅いけれど、一定だ。胸の上下が、小さな合図みたいに繰り返される。
母親の視線が、その上下を追う。
数えるように。覚えるように。――目で抱く、という言葉があるなら、いまはそれに近い。
「……触れないんですね」
父親の声は責めではない。確認だ。
“怖い”を、言葉に変えるための確認。
「今は、見るだけです」
シシスが答える。淡い声。線は引きながら、角は立てない。
「触れないのは、遠慮じゃありません。
体温が最優先です。触ると、体温も呼吸も乱れやすい」
母親が小さく頷いた。
理解しているのに、寂しさが残る頷き。
私はそこへ、ひとつだけ別の言葉を添える。
「触れないのも、手順です。
いま二人がやっている“見る”は、十分に守りになっています」
母親の肩が、ほんの少しだけ落ちた。
“ちゃんとやれている”と言われた時の落ち方だった。
母親は透明な壁へ指先を近づけ、そこで止めた。
触れない。触れない距離で止める。
その距離に、彼女の努力がきちんと収まっている。
「……小さい」
言葉が漏れる。
小さい、は喜びにも怖さにもなる。
「小さい。でも、ちゃんと呼吸してる」
私は所見だけを短く置く。
「色もいい。反応もある。——今日は“安定している日”です」
“安定”という言葉は、救急の後には薬になる。
夫の息が一つ深くなった。
父親が言う。
「名前……決めていいですか」
「決めていいです」
シシスが先に言った。
そして、ほんの少しだけ声を柔らかくする。
「呼ぶのは自由です。
呼びかけは、触れられない時間にできる“抱っこ”みたいなものです」
母親の目が、わずかに潤んだ。
泣かないようにしているのが分かる。泣くと体が揺れて、腹が痛むのを知っている人の我慢だ。
夫婦は顔を見合わせる。
言葉は長くならない。長くすると、決めきれないのを二人とも知っている。
「……“リリ”は?」
母親が小さく言う。
父親は一拍置いて、同じくらい小さく返した。
「いい。呼びやすい。……温かい」
その声に応えるように、小さな手が動いた。
温箱の中の胸が、また一つ上下する。
それだけで十分、会話は進んだ。
シシスが手順を一つだけ足す。余計な説明はしない。必要な分だけ。
「面会は短く。疲れたら先に引きます」
言ってから、補足をひとつだけ置く。
「“先に引く”のは負けじゃないです。守り方のひとつです」
「母体が先」
私が言うと、母親が少しだけ笑った。
「……はい」
返事ができるのが、すでに回復の証拠だ。
父親は両手を握って、開いた。
握っていると掴みたくなる。開いておくと、添えるだけで済む。
迎える掌の形を、ここでも続けていた。
母親が、最後にもう一度だけ見た。
見て、数えて、覚える。
抱けないぶん、今日の目に焼き付ける。
「……また来ます」
「来ていいです」
シシスが言う。
そして少し間を置いて、いちばん優しい命令を出す。
「でも、戻って寝てください。
今日の“守る”は、もう十分です。続きは、明日でいい」
夫婦は頷いて、ゆっくり踵を返した。
歩幅は小さいまま。でも足取りは、さっきより揃っている。
私的記録:
抱けない時間は、焦りを作る。
けれど焦りは、体温を奪う。温箱の向こうで息を数えることも、立派な“迎える”だ。
名前は、手順の外に置ける小さな灯りになる。そして灯りは、手を伸ばせない夜ほど、よく見える。
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1件のコメント
まだ触れられぬ寂しさは含みつつも、優しく暖かな時間が感じられる素敵なお話しでした☺️
このご家族が、どうかこのまま無事に家族一緒に歩んで行けると良いなと願ってます…☺️