診療記録046:おいしい笑顔を添えて
- 種族
- ララフェル・プレーンフォーク / 女性 / 32歳
- 職業
- 農婦
- 配偶者
- ララフェル・プレーンフォーク / 男性 / 29歳
- 主訴
- ―(退院後の挨拶)
- 診断
- ―
- 処置
- 患者家族の生活状況確認、および入院患者の食事環境の改善検討
扉のノックは控えめだった。
開くと、甘いミルクの匂いと、洗い立ての布の匂いが一緒に入ってくる。
湯気のない温かさ。抱えた体温の匂いだ。
顔を覗かせたのは、以前双子の出産を終えたララフェルの夫妻だった。
出産から二ヶ月半。今日は二人とも腕に“同じ重み”を抱えている。
母親の胸にひとり。父親の腕にひとり。
退院の頃より明らかに重く、頬が丸く、首が少しだけ“自分の意思”で支えられている。
「こんにちは。……あのとき、お世話になりました」
母親の声は落ち着いている。けれど目の下には薄い影がある。眠れていない人の影。異常の色ではない。生活の色だ。
私は椅子を示し、短く聞いた。
「どう? 母体の痛みは」
「もう、ほとんど。たまに張るくらいです」
「悪露は終わった?」
「はい」
「熱は」
「ありません」
赤子を見比べる。片方は目を開けて周囲を追っている。もう片方は父親の腕の中で静かに眠っている。唇は赤い。呼吸は穏やかで、鼻翼の開きもない。
「赤ちゃんたちの飲みは?」
父親が、眠るほうの頭を支え直してから答えた。
「よく飲みます。……よく泣きます」
母親が小さく頷く。
「二人で交代しながら、なんとか」
泣くのは仕事だ。飲むのは生きることだ。
私は頷いて、今はそれ以上を広げない。必要なのは“順調かどうか”だけ。
「順調。ウィリス先生の指導、守れてる顔だね」
母親が小さく笑った。
「厳しかったです。でも……分かりやすかったので」
そこへ、シシスが顔を出した。
視線がまず赤子に落ちる。次に母親の肩、手首、呼吸。父親の姿勢と手の支え方。
確認が終わったところで、声だけを柔らかくする。
「……入院中のごはん、どうでしたか?」
母親は一瞬だけ言葉に迷って、それから正直に言った。
「栄養は、きっと良かったです。でも……味は、ちょっと……」
シシスは大げさに嘆かない。けれど、額を軽く押さえる代わりに、短く息を吐いた。
「……あちゃー。やっぱりですか」
「うち、給食当番は外部委託ですけど……私も先生も、ちゃんと“入院食として”食べたこと、なかったですね」
私は苦笑して頷いた。
「栄養に寄りすぎると、味は置いていかれる。現場の声、拾いきれてなかった」
母親が思わず言う。
「そんな、そこまで……」
シシスが、間髪を入れずに返す。
「そこまで、です」
言い切ってから、母親の表情を見て、少しだけ言葉を丸くした。
「食べられないと回復が遅れます。母乳も体力も落ちやすい。味は贅沢じゃないです。必要です」
母親の肩が、ようやく落ちた。
責められている顔ではなく、「言ってよかった」の顔になっている。
私は小さく頷く。
「じゃあ、決まり。献立を見直そう。栄養は落とさずに、食べやすくする。シシス、作る?」
「作ります。味も、ちゃんと。私が試食します。先生も」
「……逃げ道を塞ぐね」
「逃げたら、魔導書の角です」
夫妻は小さく笑った。
母親の腕の赤子が、声にならない音を漏らす。父親の腕の赤子は、それでも眠ったままだ。
笑いというより、空気が一段軽くなるだけの変化。
立ち上がるとき、父親は赤子を抱え直した。支える手が、退院の頃より迷わない。身体が覚えた形だ。
「また、来ます」
「来るなら、寝不足が限界になる前に」
母親は強く頷いた。
扉が閉じる。
診療所に残ったのは、ミルクの匂いの余韻と、紙に走るペン先の音だった。
私的記録:
薬も治療も大切だけど──
「おいしかった」って笑顔も、きっと癒しのひとつなんだと思う。
次はきっと、もっと笑顔になれるように。治療は口から入る。薬だけじゃない。食事も同じ。
“おいしい”は、回復の手順に入れていい。
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